価値観の共通化と余白

「過度に具体的な価値観はチームを弱くする、余白が重要」と最近考えており、その言語化にチャレンジしてみたい。

価値観は共通化されないと、効率が悪い

価値観はなんのために共通化するのか、を問い直してみると、誰かと足並みを揃えるためという点に尽きる。

例えば、我が家という夫婦の例。「できるだけ多くを学び、失敗もどんどんしたい。変化が好き」という僕と、「できるだけ不要な失敗はしたくない、今が満足なら変化はいらない」という真逆の価値観を持つ妻が、なんだかんだ10年近く歩みを共にできているのは「家族を愛している、失いたくない」という強い価値観を共通化しているからだ。そしてこの価値観をそれぞれの最上位で固定しているからだろう。

生きる上で最も上位の価値観を共通化しているからこそ、お互いの欠点を受け入れる余白や、恐れず指摘することのできる関係を維持できている。歩みを揃えるとはこういうことなのだろうな、と思っている。

同じことが、会社にも言える。10Xという会社を共同創業した ishkawa とは、まだ2年に満たない程度の付き合いだが、今の所そこそこ順調に歩みを共にできていると個人的には感じる。色んな要素があるだろうが、そのNo.1は「人が欲しがるものを作りたい」という共通の価値観を真ん中に据えたからこそだろう。

余白がないと、衝突する

一方で、僕はこれまでに何度か、価値観の衝突を通じて所属していたコミュニティから離れるということも経験している。

もっともわかりやすい例でいうと、運営に携わっていたプロダクトのオーナーとの価値観が合わず、会社を去るという決断をしたこともある。

オーナーとは「事業を成功させたい」「事業は複雑なバランスで成立するもので、非常に難しい」という価値観を共通化しながらも、

「ユーザー価値がNo.1」という自分 「描いた世界観・事業計画の達成がNo.1」というオーナー 受け入れがたい価値観とのズレが、相互に大きなフラストレーションを生んだ。コミュニケーションの取り方、開発の進め方、イシューの優先度設定など、一つ一つ納得ができないことが続き衝突した。

振り返って自分の未熟さを感じると共に、「何が足りなかったか」を内省するとそれは余白だったと思う。

問題の設定や、その解き方は無限に生まれる。最終的な「事業の成功」のためにお互いが余白を持っていれば、衝突は生まれず、問題に対するより高度な理解や・解の議論ができたと思う。

基本的に世の中に出回る知見や文章は「うまく行った」ものばかりだし、こういった失敗例はあまり出回らない。僕も正直書きたくない。失敗もしたくない。けれども、上位の価値観を共通化していたとしても余白を持ち合わせないと衝突する、という大きな学びを得たのはこの失敗があったこそだった。

余白をどこに持つべきか

僕にとっての成功体験は家族と最上位の価値観を共通化でき、余白がもてたこと。失敗体験は、過去の職場で価値観を共通化できたにもかかわらず、余白をもてなかったこと。

では、このを活かすために「余白をどこにもつべき」だろうか。個人的にはなんとなく答えが見え始めてきた。これまでよりもずっと、WHYを強く握り、WHATとHOWを広大な余白にする、という方針に落ち着けている。

何をするか(WHAT)、どうするか(HOW)という具体的なアクションプランに対して、

という姿勢を自然にできるようになった。昔よりも、議論に対するネガティブなイメージが消えた。

10Xという「誰もトライしていない発明を目指す箱」を建てて、「模倣するものが何もない0→1」をする中でのチームとの経験が、先の失敗体験と混ざってマインドチェンジを促してくれたと思っている。

この点については自分が一番理解している、この方法が一番だろう という傲慢さは捨てた。問題が解ければいい。そこに正しく向かう人の数が多いほど、よりよいものがつくれるはず。今はそう思えている。余白を持とう。


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