なぜ文章を書くのか

「下手の横好き」とはよく言ったもので、僕は日々文章を書き続けている。筆を取らない日(正確にはキーボードだが)はない。時にはブログを、時には仕事のドキュメントを、時にはTwitterに誰の役にたつのかわからないような散文を書き綴っている。毎日だから、中毒患者だ。そしてこの症状は2010年にスマホを手にしたときから悪化の一途を辿っている。
 
スマートフォンは真の意味での”パーソナルコンピューター”だ。一人が一台、もしくはそれ以上の台数を保有し、LINEやWeChat、Messengerなどのコミュニケーションアプリ、はたまたFacebookやTwitter、SnapchatなどのSNSを通じて他者と自分を媒介してくれる。
Snapchatは非言語コミュニケーションの波を加速させた革新的なプロダクトの一つであるが、それによって文章を通じたコミュニケーションが廃れることはなく、多くの人は量の多寡はあれ、毎日文章を生産する。
僕も文章を書く。あなたも書く。
しかし、なぜ文章を書くのか。考えたことはあるだろうか。「書く」という行為を通じて、そして「文章」という生産物を通じて、僕は何を得ているのか。少しだけ、考えてみた。

1 / 書くことは、自分との対話である

インターネットは公(おおやけ)のものだ。公に対し文章を作成し、公開するからには、その文章には目的があり、読み手の誰かの心を動かし行動へつなぐ意図を持っているはずだ。
しかしTwitterやSlackは、「すべての文章がそんな肩肘はらなくても良いじゃない」という免罪符を与えてくれた。「書く」事自体を通じて自分と対話し、思考する。「書く」事自体を目的として良い、のだと気づいた。
Twitterの特異性。Twitterには思考のフローが垂れ流れている。99%は推敲されない。生々しい思考の跡。自分のツイートを見返して恥ずかしくなったことはないか?それは服を着せる前の裸の言葉だからだ。
ツイートに書き殴られている言葉は自分との対話の議事録ドラフトだ。ブログはTwitterと比べると、思考が服を着ている。ブログは既に「人に自分がどう見られるか」という顧客目線を備えている。本はもはや正装といってもいいだろう。蝶ネクタイにタキシードだ。
「裸の言葉」を使って僕は自分と対話を楽しんでいる。「書く」という行為を”使って”、自分と情報交換をしているのだ。人間は六感をフル活用して自分の体内に情報を取り込み、脳という精密機械にためていく。その量は極めて多く、その殆どは取り出すことすら忘れ去られ、使われない。そんな自分が持つビッグデータから何かを引き出したい時、僕は「書く」のだ。
Twitterは多くの人に「裸の言葉を紡いで良い」という市民権を与え、かつそれがしやすいように配慮してくれたステージだ。自分との対話を楽しみたい時、Twitterをおもむろに開く事が多い。同じ体験をしたことがある人は、多いのではないだろうか。

2 / 文章は、アート(自己表現)である

「書く」ことは僕が今できる最大限の自己表現だ。青春時代に死ぬほど聞いたDragon Ashというバンドのフロントマン、KJも最近のインタビューでこんなことを言っていた。
(第三者に自分の思っていることを提示する方法について)俺の場合は、作詞だったり音楽だったりする。よく言っているのが、音楽家じゃない人がブログを書くような感覚で俺は曲を書いているのかもしれない。こういうことがあったなと感じたことを閉じ込めるために曲にしてみたり、想いを忘れないために曲にしてみたりって感じかな。
Dragon Ash・Kjが語る「デジタルで音楽がなくしたもの、変わらないもの」–独占インタビュー
ブログや仕事のドキュメントを書く時、そこには「私はこういう人間です、理解して下さい」という気持ちを込めて執筆する。僕にとって、「作品」としての文章は、音楽家にとっての音楽であり、画家にとっての絵である。時にはタキシードを着せたいときもあるが、多くは即興に毛が生えたような文章を書く。あまり派手な服を着せると、かえって「自分」が伝わらない気がして。
シンプルで、短く、誰にでも誤解がなく伝わる。そして男らしく言い切る。批判を恐れない。
僕はそういう文章が好きだが、それ以上にそういう「生き方」が好きなんだろう。僕の文章 = アートには深みがないけど、思慮深さと無縁の人生を歩んできた自分らしく、どうせならとびきりわかりやすく表現したい。そう思って書く。
僕の私生活を知っている人ならわかるかもしれないが、僕は大体無地かワンポイントのシンプルなTシャツを着ている。何も考えずに買う服、買う服がそうなってしまうのは、あまり飾らず、わかりやすく、断定的でありたいという人間性からくる。そういう意味ではファッションも、文章も同じだ。
「何かを伝えたい」という衝動は誰にでもある原始的なもので、アートの本質だ。パッと見のシンプルさ、わかりやすさが僕の持つベクトルなのだろう。

3 / 文章は、自分を隠してくれる

わかりやすく、断定的なくせに、どこかビビっている。そういうところが自分にはある。よく恐れ知らずの人間であるかのように誤解を受けるがそれは過ちだ。恐怖を乗り越えることが日常。だから慣れているだけだ。
そういう質(タチ)だから「断定して、批判を恐れない(ドヤ」とか言っておきながら批判を怖がっている自分がいる。また文章を公開した瞬間はかなり恥ずかしかったりもする。けれど、批判は見えない論点をあぶり出してくれるから、逃げないようしたい。…とは口ばかりで、面と向かって言われるのはやっぱり好きになれない。そういう時、僕は文章を使う。
文章は、他人から自分を隠し、「僕の主張」だけをきれいに届けてくれる。僕が辛かったり、ビビってたり、恥ずかしくて顔が赤かったり、ハイだったり、喜んでいたりしても関係がない。僕を知っている人にも、知らない人にも、文章として吐き出された言葉は、そのまま相手に喰われていく。時に、何万という人に。
少しビビリで恥ずかしがり屋な僕が、言葉に隠れて多くの人に何かを「伝える」事ができる。それが文章だ。

さいごに

日々文章を通じて言葉を紡いでいると、「言葉」と「言霊」の違いは何か、など考えることがある。例えばWikipedeaによると言霊とは以下のようなものらしい。
声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。
口に出したことは現実化するという現象だが、僕はこう解釈している。
「思考」とは言葉で行われる。人間が他の生命と比較して突出した思考能力を持っているのは、「言葉」というツールを開発したからなのだ。言葉が重厚な思考を可能にした。
人間の行動の多くは思考を経由して行われる。つまり「声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与える」というのは必ずしもスピリチュアルなものではなく、一定の合理性がある。
文章とは後世まで残る。その場でしか消費できない会話と違い、「未来の言霊」になるかもしれない。僕は未来の誰かにとっての「言霊」となってほしいと筆を執る。その誰かは見知らぬ人かもしれないし、自分の息子かもしれない。それが楽しみで、文章を書く。