愛するということ

私の2019年は、衝突と強烈な自己反省から始まった。あるきっかけから「愛に対する誤解・未熟さ」を突きつけられ、これまでを省み、名著「愛するということ」を貪るように読んだ。恥ずかしいことに、これからの人生をかけて自分を変えていきたいという気持ちでこの文章を書いている。
 
 

私について

今は2つの大事なものがあり、ほとんど全てを2つに費やしている。
1つは家族だ。大学時代に出会って以来、10年連れ添っている妻と、仮面ライダーに夢中な二人の小さな息子たちと慎ましやかに暮らしている。もう1つは「つくること」だ。「つくること」は自然と大事な仲間もつくってくれるので、正確には3つかもしれない。
いろんな対象を流転してみたが、この3つしか私には残らなかった。
特に家族とは「ロマンティックな記念日」や「驚くようなイベント」を通じてではなく、「極めて平凡な日常」を通じてお互いの信頼を育んでいる。妻にも、息子にも、幸福になってほしい・幸福を見つけてほしいと腹の底から思っている。「つくること」やその過程で一緒になった仲間たちに対しても似た感情を持っている。
対象はなんであろうと、自分なりに「対象の幸福や成長のため、情熱を注ぐ・行動すること」自体が「愛するということ」だと考えてこれまで過ごしてきた。
しかし妻との衝突を通じて、その過ちに気づくこととなった。

衝突

対象を愛するということは予想以上に難しく、ときに自分の人格を完全否定するプロセスと遭遇することがある。
きっかけは自分にとっては小さなもののように思え、相手にとっては大きなものだった。
妻は大学院ではそこそこ真面目に生命科学を研究し、一定の成果を収めていた。また職場(製造業)でも短い時間ながらしっかりとパフォーマンスしているようで、時折聞く話からは周囲の職務に対する信頼も厚いようだった。他方で、子どもが生まれて以来、彼女は「子どものために時間を使うこと」を人生の最優先事項においており、私もそのことを尊重していた。
職場ではデータやエクセルを活用する頻度も高いようで、それであればVBAやシステム思考についての一定の知識がつけばより生産性を高めることができるのでは、と思っていた。そもそも彼女は大学院時代に実験・研究を通じてシステムを扱うことの素養を身に着けていたし、仕事を短縮し子どもとの時間を増やし日々に余裕を生むことができればプラスが大きいのでは、そう考えて「プログラミング勉強してみたら?」と声をかけていた。
しかし私の気づかぬうちに、この言葉が毎回彼女に大きなストレスを植え付けていた。出産以来、目まぐるしく変化する日常を精一杯過ごしてきたのに、さらに急速に変化を求めのか、と。今ではそのとおりだと思えるのだが、これまでの私には彼女への想像力と配慮が足りておらず、言われるまで全く理解できていなかった。どれだけのリスクを負ってこの急激な変化の中過ごしてきたのか、ということを。
私の気軽な提案は、彼女からすると「日々の努力」は尊重されていないように感じられ、意図せず大きなプレッシャーを掛けていた。そうしてある日も同じやり取りをした際に何かがプツンと切れ、お互いがパニックになるほどの言い争いになってしまった。
「可能性を提示しているだけ」というスタンスだった私は、彼女のもっとも重要な尊厳を踏みねじっていたことに初めて気づいた。きっと「自分が正しいと思ったものに邁進しがち」という私の性格がも重なり、「ただの提案ではなく説得」に感じさせていたのかもしれない。
「ごめん、そんなつもりはない。」
それでは済ませることができないほど大きな衝突だった。二人の言い争いを通じて、最愛の子どもたちが怯え、一緒に泣き出すという自体も引き起こしてしまった。かけがえのない3人の心を無配慮に殴ってしまったことに深い反省と自己嫌悪を抱いた。そしてこの衝突をきっかけに、自分の人に向かう心のもちよう、愛の定義を根底から変える必要があるとのだと気づいた。私の愛は間違っている。そして最も大事な人を傷つけてまで守りたい自我などいらない。

愛するとは

先の件があり、貪るように名著「愛するということ」を読んだ。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうにという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
それまでは「愛」というのはほとんど雰囲気で使ってきた言葉だったが、今でははっきりと言語化することができた。以下のような定義が自分の中にストンと落ちている。
自らの意志で対象へ向き合い、互いの尊厳を認め配慮し、自分がどう思われようと相手の「幸福と成長」に責任をもつ態度
フロムの記載の通り、愛するというのはこちらが行う「信念の行為」であり結果を問うものではない。私達の中にある問題であり、私達の意志から始める行動だ。そこに他人は干渉しない。
そして、私のそれまでの「愛」には、「尊厳への配慮」が決定的に欠けていたのだと気づいた。

愛は技術である

「愛する」というのは、この態度を実践する「技術」であり、誰もが簡単に浸る「感情」ではない。
その習得と実践には 極度な集中 を要し、忍耐を持って自らに育む必要がある。愛するとは宣言するものではなく、修練し、己に積み上げるものだ。一夜にして身につくものではない。そしてその習得の難しさをフロムは指摘する。
どうしたら愛することができるのか。 愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。 目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。 とはいえ習練を積むためには、規律、集中、忍耐、技術の習得に最高の関心を抱くことが必要である。
現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。 集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。 現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。 集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

必要なバッファ

現代はますます「愛する」ことから、人を遠ざける魅惑に満ちている。愛することを習得する機会と集中は、「スマホ・SNSによって分散化された時間」によって阻まれる。
愛は余裕から生まれる、といっても過言ではなさそうだ。例えば重い怪我をした状態で、隣の誰かの配慮をするのは難しいだろう。
完全に自律した自分でないと対象に配慮をすることは不可能であり、「極度に集中して自律する」には自らの思考や時間に余裕を作るしかないと思うようになった。また、余裕は「余裕を持ちたい」という意思から生まれるのでなく、「余裕を生むための具体的な行動」からしか生まれない。
最近だと、私は自分自身のスマホのスクリーンタイムに驚く。1日4時間もスマホのスクリーンを見ていて、どうやってそのほかの対象を愛する時間が生まれるだろうか。件の出来事があって以来、帰宅後に即スマホの電源を切るようにした。本当の仕事と家族や身の回りへの極度な集中をつくるため。少しずつ、集中して家族を愛せるようになってきた気がする。
いつでも自分の薄弱な意志ではなく、具体的な継続できる行動規範、すなわちルーティンを信じたい。

スタンダードを変える

これまで、「誰かを愛することは自分のリソースの問題だ」と割り切って生きてきた。自分のリソースには限界があり、愛せる対象は2つや3つが限界。だからそれ以外の対象について愛を持って接するのは難しい、という考え方をしてきた。
しかし、きっとそうではない。愛が技術なのだとしたら、その技術自体を高め、多くの対象に対して発揮をすることだってできるはずだという考え方に変わってきた。 そのスタンダードを高めることが自分の品質にも直結し、何より最も大事な「家族・つくること・仲間」へ幸福と成長を届けることができるのではないかと思うようになった。
もちろんリソースの問題は絶対にあると思うし、日々にバッファをつくらないと技術の発揮も難しい。それでも、もう先の衝突のように人の自我を傷つけたくない。自分を変えたい。そのためのも、目の前の対象への向き合い方を変えることと、日々に余裕をつくることから始めたい。
PS. twitter金融クラスタの広瀬隆雄さんが時折「愛について」深いつぶやきをするのでオススメしている。
※本文に登場する引用は全て「愛するということ」より。